「決壊」 平野啓一郎

読みました。







「病気」であったから罪を犯したのではない。罪によって「病気」であるとされているに過ぎない

というくだりが印象に残っている。
罪と罰」は現代社会では「病と治療」に取って代わっている。
木村敏の「異常の構造」と「permanent fatal errors」がダブってしまう。
現代社会は合理主義精神の極地に存在し、現代社会に生まれた人間は、根本的な矛盾をかかえた状態で存在していくことになる。「例外」として処理される非合理的な現象は骨抜きにされた非合理であって「非合理」そのものではない。「例外」として位置づけられた非合理は「合理」に隷属させられ「合理」の自明性を補強する道具にさえされる。マスメディアの時として無意味に見えるヒステリックなまでの「理由」の追求は「例外」としての処理が求められているからだろう。。
とても悲しい結末だった。けれどあそこまで突き詰められた物語が、あれ以外の結末になりえたかどうかを考えるとやはりああなのかなと思った。個人的な文脈すぎる感想だが村上春樹的な閉塞以上の何かを感じた。可能性というものはそれが現実に結晶するか、イマジネーションの産物として結晶するかのどちらかの方法でもってこの世に現れると自分は思っている。救いのない小説だったけれど、現実にあっては、この物語が小説として結晶したことで救われた人もいるんじゃないかと思いもした。
ただ、一つだけモノ申したくなるとすればそれは著者のインターネットに対するアティテュードかな。自分はプログラマとして飯を食べているのでことさらに反応してしまうだけかもしれないが、「ウェブ人間論」などを読んだ感じからして著者はインターネットに対してよく言えば慎重。わるく言えばネガティブな感情をすら持っているのじゃないかと読み取れる節がある。
ただ、情報そのものに善悪があるわけではないのと同様に、インターネット自体に善悪があるわけでもない。むしろインターネットは性善説みたいなものを前提に生まれ、成り立っているわけで、ネガティブな側面だけに光があてられたのはとても残念だった。
RFC(Request For Comments)「コメント待ってます」という名前の文書がインターネットの仕組みを決定しているのだが、実はRFC1は1969年に発行されている。1969といえばウッドストックありーの安保闘争ありーの冷戦ありーのベトナム戦争ありーのの年で、個人的には時代の分かれ目になった年なのかなと感じているが、そんな年に「コメント待ってます」なんて言葉で始まっていたんです。
誰が何のために金を出して研究を進めていたのかを考えれば「コメント待ってます」なんて文書を発表できたのは1969の奇跡なんじゃないのかな?
支離滅裂になってきたのでもうやめ〜。