楢山節考

「ならやまぶしこう」
平仮名だけだったらすぐに忘れそうな言葉を、還暦を過ぎているおばちゃん(おばあちゃん?)ヘルパーさんに教えてもらいました。漢字は「忘れた。」とのことだったので後ほど検索してみると「楢山節考」。
ひょんなことから姥捨て山の話になり「楢山節考」に出会いました。著者は深沢七郎
読んでみてビックリしたのが一般的な姥捨て山のイメージとは正反対に描かれていたことです。従来のイメージだと老いた世代の人間が若い世代の人間に捨てられるというものですが楢山節考においては老いた世代が自らの意思において山に登っていくというものでした。
山には神がいるということで来るべき「山登り」の日に向けてかなりの儀式的な手続きがあることも伺えます。生という日常から死という非日常に向かうために村の文化、慣習、掟といったものが老いた人間を死に向き合わせようとします。この本の主人公は前述のとおり積極的に山へと登っていくわけですが、中には自分の意思にそわず捨てられ、それでもなんとか家に戻ってくるが中へは入れてもらえないケースも描かれていました。
結局のところ「山登り」は慢性的な食糧不足に対する「口減らし」のために存在した日本の文化だったと思いますが、現代日本に生きているとなかなか縁遠いはなしです。まぁ縁遠いはなしで全然イイとは思うけど。
昔の人たちは文化的な強制力が働いて死と向き合っていたけれど、現代人にはそんな強制力はもうないに等しい。介護をやっているとターミナルケア(ターミナル=終着駅)を経験するがやはり人それぞれで様々な苦労がうかがえる。現代社会の人間は「自由の刑に処せられている」というのは本当だなと思った。